◇「神奈川もみじ会」より転載 ◇
「青春闘病記」
横浜市緑区 上野 英二
 戸塚に住んでおられる会員さんから、大きな建物である国立横浜病院の写真をいただいた。昔、私がお世話になった所だ。今は呼び名も違う様だが当時はそう呼んでいた。写真は50年前の面影を残す門や垣根があった。ここは昔の海軍病院で戦後国立病院となった。敷地も広く樹木も沢山あった。
 写真は私に当時の事を思い出させた。結核の発病は戦後間もない昭和26年、22歳の時だった。会杜の集団検診で「レントゲンに少し影がある」「たいした事はない、田舎に行ってのんびり暮らせば治る」と言われた。当時の都会では食糧事情が悪く、若い人が結核になる事が多かった、自分の身に起きるとは思ってもいなかった。病気に無知だったので簡単に治ると思った。
 しかし、医学の事に詳しい知人がおるのを思い出し相談しようと、いつも会う駅で待ったが会えなかった。もう一日待てばよかったのに、翌日レントゲン写真を持って近くの医者に行った。
 医者に言われるまま胸に空気を入れる「気胸」という治療をした。肺の上部の病巣に空気を入れ潰す方法だったが、1回で胸に水が溜まり苦しくて熱が出て寝込んでしまった。胸の水は抜く機会が無かったため固まって、肺は動かなくなってしまった。近くの往診してくれる医者に診てもらう様になった。ストレプトマイシン(ストマイ)を注射してくれるこの病院に入院した。ストマイ30本(約3ヵ月)、その後は安静に寝ているだけだった。
 このころ結核の医療雑誌の「保健同人」と「健康会議」などを良く読んだ。ストマイなど結核の薬は、使用申請を県の審議会にかけられる事も、ストマイも本当は続けないと効果が無いのも、その雑誌で知った。ストマイの治療後は、それ以上に良くならなかった。発病から2年が過ぎようとしていた。
 そんな時、風の便りで私が入院している事を知った知人が見舞に来てくれた。国立病院に用事で行くので、レントゲン写真があれば先生に診てもらえる様にお願いして上げると、有り難い話であった。ここが運命の別れ道だった。
 「手術すれば治る」との話をいただき、後は自己判断で総ての事を決めて転院した。だが医療費が問題だった。2年の健康保険も切れていた。役所に行き、結核予防法について担当者に相談した。この制度は厳しく、親は働いていなかったが家族の負担金があったのに、若い私の話を良く聞いてくれて、医療費は全額免除してくれた。
 国立病院では「3者療法のストマイ、ヒドラジット、パス」を入院の日から使ってくれた。先生は県の審議官でもあった。手術までの2年の間、夕方に敷地を良く散策した。そこで散歩仲間が出来た。植物の話や絵の話、私の俳句の相談相手にもなってくれた。はじめその人は病院の職員で、近くの官舎から見えられていると思っていたが、アメリカ帰りの外科長先生と後で知って驚いた。
 内科の2階大部屋の患者の中で最後に手術を受けた。私の手術は2回と決まっていた。(1回目は肺切除、2回目は肋骨を切って胸の空間を埋める補成とよんでいた)1回目の手術後の外科長回診の時、先生を集めて何か説明して2回目の手術は不要と言われた。新しい方法であった。
予後も良く3ヵ月で退院の許可がおりた。内科の先生の所に報告と挨拶に行った。これからの事を相談すると、兄貴の様な先生は、真剣に聞いてくれてアドバイスしてくれた。退院したのは昭和31年、27歳だった。治すのに5年近く掛かってしまつた。
こんな体になったが健康保険と厚生年金のある会杜へ入る事ができ、再発する事もなく定年過ぎまで働いた。63歳で勤務中に風邪が元で倒れた。だんだん障害も重くなり酸素を吸うようになったが、今の私は孫にも恵まれ、生きられて良かったと実感する日々である。これからもリハビリに励んで、元気な日々を送りたいと思っている。
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