◇ 医師としての大病体験 ◇
(SSKAもみじ会報No.176号から転載)
 元国立療養所東京病院医長
 元東京都リハビリテーション病院院長
医師 古賀 良平先生 
 妻と二人で住んでいた昭和五九年暮れ、五四歳の妻は雨戸を開けようとした時、頭を金槌で打たれたような痛みが起こり、意識を喪失した。くも膜下出血による脳卒中で、意識不明になると五分以内に蘇生させなければならないので、私は口移しの人工呼吸と心臓部を繰り返して圧迫する蘇生術を始めた。気は付いてくれたが、人工呼吸を止めると息が止まってしまう。やっとの思いで知人へも連絡が取れ、救急車を呼ぶ事ができた。幸い都立神経病院に入院したが、こんな時によくおこる肺炎を併発し発熱した。一ヶ月以上も意識.不明が続いたあと、目が覚めてくれた。その熱も納まり、手術もできるようになった。脳動脈瘤のクリッピング術は成功したが、血管攣縮による右の不全麻痺が残った。しかし、リハビリに専念し漸次快復していった。
 リハビリテーションとは、身体的、精神的、杜会的、経済的にも可能な限り回復を図る事であり、先ず、身の回りができるようになることが第一である。
 二十年経った現在、腕などにやや後遺症的なものはあるものの、主婦として家事を完全にこなしてくれている。
 一方私も、中央区に創設した「東京医療福祉専門学校校長」時代の平成十二年十一月、大便で力んだ時、目の前が真っ白になり、自室に戻り救急車の手配をした。心筋梗塞である。救急車が来た時聖路加病院を指定して入院した。直ちに経皮的冠動脈拡張術が行なわれた。心筋梗塞の治療は、昔は絶対安静であったが、今のリハビリは割合早くから廊下の歩行などを始める。この貴重な病気の経験を大変感謝している。最近私は、医療人の立場から、自分の病気体験を通じて皆さんに役立って行きたいと考えている。
ちなみに、
◎ 倒れた時、多くの人が心配して、見舞
 いの電話や訪問して来てくれるのは有難
 い事ではあるが、一々病状を説明する辛
 さ、そっとしておいて欲しい。
◎ 病気の予後は病院によって決まる。行き先の病院を書
 いて何時も持っているとよい。意識を失った時はとくに
 大切である。
◎ 日本のナースは忙しい。アメリカなどと比べて日本は
 何分の一の人数である。夜勤明けのナースは顔に化粧が
 のらないと言われている。以前、北海道の病院に火傷の
 治療に来たソビエトのコンスタンチン少年が覚えた最初
 の日本語は、「ちょっと待ってね、一寸待ってね」だっ
 たそうであるが笑えない。 
(平成十五年十月十七日東村山市福祉センターの
  シニアささえあいの会講演から。文責 久保隅 哲彦)
 [編集者の一言]
暖かい夫婦愛と、古賀先生だからできたご夫人への応急措置、読み終わってホッと安堵感を覚え、また、多くを教えられるエッセイです。
特に、最後の「日本のナースは忙しい……」の文は、本当に笑えない現実。入院した時にナース・コールすると、返ってくるのはソビエットの少年が覚えた「ちょっと待ってね」と、「どうしましたか」です。
50床の病棟に深夜勤務の看護師さんが2人では「は〜い、直ぐ行きま〜す」の返事を望むのは無理かも知れません。患者も忙しい看護師さんを思いやって、何もかもナース頼みから脱却したいものです。お互いの立場を理解できるようになれば、不満も少しは解消するでしょう。
この記事の転載をご了承いただいた古賀先生、全国もみじ会と久保隅さんにお礼を申し上げます。
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