◇ 前会長退任挨拶 ◇
 ご支援と指導、協力に感謝して
前会長  大隈 辿
肺気腫や結核後遺症、間質性肺炎などの病気で肺機能に障害があると、ちょっと歩いても息苦しくなるので外に出かけることが少なく孤独になり、自然「うつ」の状態になって、益々「病気」も酷くなるようだ。
以上は、ホットの会の創設者で平成9年1月に肺気腫のために亡くなられた、教育や学習書籍出版社に勤めていた岩橋昭さんが、「私の生きがい」副題を「定年後に作った生きがい」とされた遺稿に述べられているものです。
呼吸器専門病院でも、病院主導の患者会で、バスハイクや懇親の会を行っています。しかし、岩橋さんの手法の違うところは、患者が上述の「孤独」と「うつ」から脱却するため、先ず、呼吸器医療関係や同病患者の生活実態を伝えるための会報発行からスタートしたところです。平成2年8月に出されたホット第1号は、B4の洋紙を2つ折りにした4ページのものでした。
ページ数は少ないのですが、呼吸器医療の情報や患者の体験エッセイなど、内容は豊富で、院長の発刊祝辞の中に、当時のホット患者数は1万人とあり、現在の約12万人と比較して患者数の増加に驚きを感じます。
岩橋さんの活動は次々に実を結び、平成3年8月には会員52人でホットの会が発足、翌年には内部障害者の団体である福岡県難病連に加盟し、県呼吸不全患者を代表する会として、県や福岡・北九州両市に陳情しています。
平成5年には全低肺の賛助会員に加わり、全国情報の収集を可能にし、会報の郵便料も軽減され、会員数も180名前後まで増加しました。
このような会の活動の中で、平成11年4月、第3代会長に推されました。しかし、私には初代岩橋会長のような医療知識や才覚もありませんし、第2代の大曲会長のような患者会運営の手腕もありません。そこで、私が唯一心掛けたことは、幅広く情報を集めることでした。医療関係機関と密に連絡をとり、全低肺の大泉会長と小宮山事務局長にご指導をお願いし、北は北海道から南は隣県佐賀まで、各地の低肺の会にご協力を頂きました。
医療関係情報に力点を置いた会報作りでは、一応の成果を得ましたし、2年前から熱心なボランティアの好意で開設した会のホームページは、今日までに5万件を超えるアクセスがあっています。
一方、各年度の会の定例行事については、役員や会員の皆さんの支援のお陰で、計画に従って遂行できました。この度、6年に及んだ会長の役を退いて、人格識見ともに優れた秋重会長に引き継いでいただけることを深く感謝しています。皆さん、どうも有難うございました。
「ホットの会」のTOPページへ 「会報誌69号」へ 次へ