◇ 福岡県西方沖地震の体験記 ◇
《福岡県西方沖地震》 
(2005年3月20日午前11時前発生)
地震! そのとき 私は・・
日頃から地震は少ないところでしたから、夢想だにしなかった福岡県西方沖地震でした。地震の影響を受けた地区にお住まいの在宅酸素患者の会員さん9名(徳永、上杉、兼尾、山本、八木、堀、籐、浅川、冨岡・・敬称略)に急遽寄せていただいた貴重な体験記です。
〔デパートの中に居りました〕 
春日市  徳永 稔
地震が発生しました時、家内と福岡市中央区のデパートでショッピング中でした。店内は、突然発生した震動の激しさで一瞬にして停電となり薄暗い店内は騒然となりパニック状態でした。私も瞬時の震動の激しさに何等為すすべもなく茫然として・・気が付いた時はショーウィンドーケースの一角にしがみついて座り込んでいました。
次の行動は、薄暗い室内で携帯用酸素ボンベを抱え込んで、停止中のエスカレーターの階段を5階から1階まで一歩一歩下りるのが精一杯で、1階に辿り着いた時は相当呼吸が乱れていました。地震発生から店を出るまで、独自の勝手な判断で行動したので関係者による避難誘導には気が付きませんでした。
日頃、職場では災害時の避難誘導訓練は、マニュアルに従って整然と行われていると思いますが、非常時態に直面した場合、日頃の成果が期待できるかどうか甚だ疑問に感じました。店外に出て街路樹が傾き、舗装道路が大きく曲がり捲り上がっているのを見て、改めて中央区の地震の激しさを再認識し、身の竦む思いで帰宅しました。
当時の私自身の行動はさて置き、私たち在宅酸素患者が日頃、不安感にかられ、危惧していることは、今後、類似の震度5強を超える大地震が発生し、停電、家屋の倒壊、火災等不測の緊急事態に直面した時、果たして冷静に対応できるでしょうか。家庭生活の中で、停電により酸素濃縮器が使用できなくなり携帯用軽量酸素に切り替え使用する場合、酸素ボンベの確保、供給は円滑にやって戴けるのだろうか・・等など不安だけが思い浮かびます。
酸素供給会社などにおかれては、緊急事態に伴う対策と対応についてはマニュアルなど作成してあるものと思われますので、医療勉強会その他の会合などを通し提示して戴けるよう要望したいし、そのことによって私たちの不安感も解消されるのではないでしょうか。
在宅酸素を使用している私たちにとって、生活の大部分を病院酸素供給会社に依存していることを考えれば、今後、更に医療関係者のご指導とご協力を得ながら安心して快適な療養生活が送られるように願っております。
〔お彼岸で出かける準備中に〕
福岡市博多区  上杉奈生美
その日はお彼岸で、出かける準備をしていました。ちょうど立っていたところユラユラと、揺れた!すぐに、おさまるだろうとそのままでいると、強烈な横揺れが。「座りなさい!」、母に言われ、慌ててしゃがみ込みました。
飛ぶように落ちてくる本や小物。
阪神淡路大震災の映像がよぎりましたが、酸素のことを考える余裕はありませんでした。やがて静かになり、濃縮器の所へ。停電も故障もなく、後になってホッとすると同時にゾッとしました。
我が家はマンションの5階ですが、もしも避難する際、エレベーターが動かなければどうしょうと、またゾッとしました。(幸い、避難せずにすみました)電話がつながるようになると、酸素会社さんからお電話が。気にかけて頂いていると感じ、とても心強かったです。
以前、子供や高齢者の方、障害者、傷病者(妊婦さんや旅行者も)は、「災害弱者」だと聞きましたが、今回、実感しました。また、近隣の方、地域の方に分かって頂いていることも大事だと思いました。
〔遠来の客と別れの挨拶中でした〕
福岡市西区  兼尾栄子
その時、私は遠来の客に別れの挨拶で平身低頭していました。
突然、つき刺すような、たて揺れ、よこ揺れです。
夢中でテーブルの下に隠れました。酸素だけはしっかり当てて。
幸運にもお皿が2、3枚割れただけで済みましたので、避難はしませんでした。後で、早速タンスの位置を変えたり本棚を鎖で固定したりしました。
私宅はこれですみましたが、テレビで長引く避難生活などを見ますと、とても私は自信がありません。取り越し苦労をしています。
《テイジンの方は、その時はエンリッチャーを設置すると言って下さいますが・・》行政も酸素供給会社も出来る限りはして下さるでしょうから、あとは幸運を祈るのみですね。
〔右手はギブスの状態でグラッと・・〕
福津市光陽台  山本光子
その日は1人、ゆっくりテレビを観ている時にグラッと揺れ、一瞬地震(?)
と不思議な思いがしました。右手にギブスの状態でしたので、物が倒れないようにと部屋の真ん中で見守るのが精一杯。幸い壊れ物ひとつありませんでしたが、酸素をされている方は・・と気になりました。しばらくは、備えてと思っていたのですが「喉元過ぎれば・・」で今は無防備の暮らし方です。
日持ちのするパン、水、サランラップ、靴、電灯などはリュックなどに入れて置いていた方がよいのかなとも考えています。病身の者には避難するのは大変な苦労です。その事を普段考えて、備えるのは難しいのでしょうか?
〔福岡病院に入院中でした〕
福岡市西区  八木よし枝
地震が来てから4ケ月も過ぎたのですね。私は当時、福岡病院に入院しておましたが、生まれてはじめてのことでしたので、大きなショックでした。
3階でしたが、胸がドキドキして、庭の樹々が目の前に迫ってくるように思いました。(玄界島のようにはひどくなかったのでしよう)
私はテイジンさんにお聞きしたいのですが、関西大震災の折「うまくいった」と云われていましたが、どの様な状況だったか、聞いてみたいです。福岡西方沖地震とは比べものにならないような気がします。
〔停電で酸素のストップが心配で・・〕
福岡市南区  堀  薫
今春の地震の時の対応を書きます。いたってドライな親娘でした。
◇3月20日 昼前、急にグラッとくる
【私】「あれ?地震?あら、あら、珍しいねー」
「揺れてる、揺れてる、ワーオ!!」
席を立ち居間に行きテレビをつけて見る。震度6弱。
【父】囲碁に行っていた父が帰ってくる。私の安全を確認したら、また直ぐ、続きをやりに老人会クラブへ戻って行った。
一応、私も父も停電で酸素がストップするのを心配していました。
◇4月20日 AM6時すぎ
【私】「おー、おー、また来たか」
「揺れる、揺れる、けっこう強いわねぇ」と言いつつ、朝刊のちらし≠フ本日の特売品をチェックし、メモしていた。
「あらあら震度4〜5、初めとあまり変わらないねぇ」
【父】揺れで目が覚めた父は、テレビをつけて見ている。
一応おさまった時点で「またもう一時間寝るか!!」と寝室へ。
二人とも地震自体は平気な方ですが、我が家が1階だったので、揺れが少なく、怖さが少なかったのも平常心で居られた理由です。
10階の人は大変びっくりされたことでしょう。
〔鼻に付けたカニュゥラに逃げ足は引っ張られ・・〕
糟屋郡篠栗町  藤 喜三太
地震の瞬間に私がとりました行動を絵にしてみました。

4月20日の地震の時は、家内とソファでテレビを見ておりまして、ヒャーと飛び上がり・・
男はダメですねぇ。ニゲロー!と云うことで玄関から出ようとしましたところ、カニューラチューブ付けたままで、引っ張られて、転びそうになりました。


家内から「落ち着いて行動しなさい」とサンザンでした。
〔マンション9階の部屋でパソコンを打っていました〕
福岡市博多区  浅川 衛
私は妻と二人で、福岡市の真ん中、博多湾海岸に近いのマンションに住んでおります。建物は10階建です。私どもはその9階の部屋で3月20日の地震に遭遇しました。
その時の状況ですが、妻は四つんばいになって「あぁ〜揺れよるぅ・・揺れよー・・」と泣かんばかりに喚きます。私はパソコンを打って居ましたが、何と云いますか、あまり恐怖感は有りませんで・・と言うのは、このビルの建築が1回目の設計が敷地のわりに高さが高く、ペケになりまして2回目は同じ高さなのに、高層建築の基準の鉄骨になっているのを知っていましたので、マァ、倒れないだろうと、たかをくくっていました。それで倒れた家具はありませんが、中の食器類、自慢の陶器類は殆んど戸が開いて、板張りの床に落ち壊れましたし、壁いっぱいの書棚の本は全部廊下に落ちて、本の山になりました。
直ぐ、息子が片付けの手伝いに来て、手当たり次第に棚に詰め込んだので、未だにどの本が何処にあるのやら、殆んどわかりません。この片付け方を見ていた妻は皮肉たっぷりに「強かぁ」と息子に言いつつ顎を出していました。
マンションビルとしての被害は、8階でエレベーターが動かなくなり二日程は1階分だけ脚で昇り降りしましたが、それだけでした。
もう一度、4月20日でしたか、夜中に就寝中に大揺れがありました。
その時も妻は「また、揺れようー!」と言って布団を被りました。この時は優しく肩を叩いて「おい、おい、大丈夫!ダイジョウブだよ・・」と慰めてあげました。
〔お彼岸で お寺で読経中・・〕
前原市  冨岡哲彦
3月20日は、ちょうど春のお彼岸の中日で私ども門徒はお寺へお参りする日でした。ご住職と一緒に参詣者全員で読経している時でした。
あと少しで終わろうという時、突然!本堂中が大きく揺れ、今にも崩れ落ちるのではないかという強い恐怖感に襲われました。
あまりにも突然の出来事で、みんな金縛りに遭ったように一瞬!固まってしまいました。その時、誰かの『外に出て!』という声にハッと我に返り急いで外へ駆け出しました。目の前には、石灯籠の頭の部分等が転げ落ちていました。
みんな一目散に自分の車へと駆けていきました。
私の車は、門徒会館の軒先近くに止めていました。
ひょいと目を向けると、私の車の上に多量の瓦が降り積もっていました。
何と言う事でしょう!車はペシャンコになっているではありませんか!
唖然となりました。もし地震発生の時刻がずれていたら私の命は無かったに違いありません。
車が身代わりになってくれたのです。
まさしく仏様のご加護だと感謝しています。百年に一度あるかないかの大地震の体験をしたというのも、何かの縁でしょうか?
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