◇ 「夫、栗原実苗の死」 ◇
名古屋市 栗原道子
2003年11月12日午前6時30分、栗原実苗が死にました。
夜中、2時30分頃、病院からの電話のベルに飛び起きる。
「御主人が血を吐きました、すぐに来て欲しいが今すぐ
どうこうということは無いので道中気を付けてお出で下さい。」
娘家族と10分程で病院に到着。
私の顔を見ると、
「静脈瘤だ、伏兵だったな。」と云う。
枕元は多量の血で汚染されていた、
癌発症より約10年、初期の頃は静脈瘤が多発して硬膜療法が施されていた。
何時の頃からか胃カメラを飲むこともなく、肝癌に対するアンギオとペイトで主な治療を繰り返してきた。排便を訴え真っ黒なタール様便多量認める。
まだ吐き気があり、
「血が出そうだ。」と云う。
主治医による止血の為の風船が鼻腔よリ食道内に入れられる。酸素6リットル、苦痛にて冷や汗が噴き出す。
息子の嫁と孫たち到着。静岡に単身赴任の息子も高速にて当方に向う。
孫たちがそばに寄り手を握る。
「わかる?」
問いかければ一人一人の顔を見てうなずき名前を云う。
5時30分頃息子到着。
父の手を取るとうなずき、云う
「もう、さよならだなぁ。」
泣きすがる私に
「泣くな。しっかリしろ。」
手を引き寄せ
「俺の云っていた通り尊厳死だ、
尊厳死。」
二度繰り返し意識薄れていく。
ドクターもナースも居ない、肉親家族みんなに見守られ、静かに息を引き取った。
死の前日もベッドの背にもたれ、見える片目でワープロに向っていた。翌朝速達で出すようにと私に伝えていた原稿がテレビの上に置いてあった。
腰痛の薬も入り多量になった薬を一気に飲む様を見てナースも驚いていたが、生きる努カをする姿に瞑目した。
今回、医師の日本呼吸器学会を開くにあたり全国の患者会を対象に「円卓会議」が招集されるのを病中の身で参加出来ないもどかしさに、必死で原稿を作っていた。出来上がるとFAXで私に送らせた。
同居する大学生の孫が初めての選挙を迎え、日頃尊敬してやまない祖父(実苗)と手紙の交換をしていたが、病の進行を自覚し近い死を予感していたのか真剣に手紙で話し合っていた。
目が不自由なので字が上手く書けないため病室にワープロを持ち込み 日に2・3時間は震える手で休み休み向っている(腰痛に耐えながら)。
この度の入院は徐々に体力を落とし、死の前日はワープロを打った後は寝たまま食事をし、私はその介助をした。食事摂取量は少なく二口三口で拒否。まだやりのこしていることが多いと云い処方されている総合栄養剤エンシュアリキッドで薬を流し込む。
最後まで家族のため患者組織のため渾身の力を振り絞ってワープロを打つ姿は、元気な頃のように精気に満ち、男らしく引き締まった横顔は輝いて見えた。その瞬間を出来ることなら残したいと思った。
若き日の結核に対する成形手術の際の輸血による血液汚染は、慢性肝炎―肝硬変―肝癌となったが、彼は自らの病を客観視し、きびしい治療に耐え、前向きに生きる努力をした。
患者運動の先頭に立ち、的確に考えを発信する、その姿を間近に見て私たち家族は、夫父祖父としての彼を誇りに思い尊敬の念を隠せません。
彼を失った、喪失感の中、彼への思慕に感情の高まり募り、まとまった文章が書けず支離滅裂になってしまいましたことをお許し下さい。
編者メモ:
栗原さんは全低肺の初代事務局長で、本誌61号の「ゲスト&会員通信」の欄に、平成14年10月に入院中の《マイカルテ》と題して、送って頂いた記事を紹介しています。
それによると大正15年1月生まれ(編者と同年生)で、昭和20年代に肺結核の胸部成形手術をし、その時の輸血から、夫人が述べられているように、C型ウイルス性肝炎から肝癌を発病したのですが、患者会活動に熱心で、事務局長を辞任してからも全低肺の相談役として各地区の患者会を励まし続け、ホットの会も会報を出す毎にご意見を送っていただきました。
患者会は大切な方を失いました。どうぞ、安らかにお眠り下さい。
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