◇ 「十年日記」 ◇
福岡市南区  村上静子
久しぶりの小春日和の午後、背中に快い陽を受けて草引きをしていると、宅配の車が止まつた。
手袋を脱ぎながら、ひと抱えの配達のものを受け取る。心当たりはないが、とりあえず受け取りの印を押すと「花暦」と読めた。ああ、あれだ、大分まえ通販に注文したことをすっかり忘れていた。
急いで手を洗い、慎重に荷を解く。百科事典ほどの大きさの中函があり、それを開けるとパァと古代朱の羊皮地に金箔をちりばめた豪華本、十年日記「花暦」なるものが出てきた。
この頃、うんざりするほど送られてくる通信販亮のカタログの中に、ちょっと意外なものがあった。
十年日記というものである。
日記は私には習憤になっている。よく続かないという人がいるが、私は眠る前、メモのような一日の記録と、収支簿に財布の中身を一応確かめてからでないと一日が終えた気がしない。物忘れがひどく昨日のことも忘れるような私が、どうにか杜会生活が出来ているのは、記録することによって、なんとか辻棲が合わされているからだと思う。
若い頃、ノートに何枚も書いた日記が、その後博文館の三年日記となり、次に五年日記となった。今はもうメモのようなもので、だから続くとも言えるのだが、十年日記と言うのは考えたこともなかった。
B5版で二〇〇一年から二〇一〇年という世紀の切れ目、写真で見ると本皮の古代朱がなんともいい感じだ。厚い背表紙も、全面に浮きあがった文字は金箔で打ち出されており昔立派な書斎に見かけたことのある西欧の豪華版のようだ。
花暦と言われるように、毎日、日本画家の花の絵が片面に入っているのが売りのようだ(日本画院)と言う紛らわしい名前と、古い画風の絵はあまり好きではないが、その豪華な装丁と予約を受けて作る、いわば手作りのようなところに魅かれて予約したらしい。
価格は三万円、それが高いか安いかはそれぞれの受け取り方だ。
これから十年なんて、そんなに生きられる自信もないものが、途中で終ったとしても、それはそれで自分史になるだろう、と気持が動いて申し込んだのだと思う。
届いたものは写真通りの羊皮張りの金ピカの豪華本だった。花暦と日付の入った古代朱の表紙におやと思ったのは、飾り文宇でNHとイニシャルが入っていたことだった。
一瞬、なんでと思ったが、どうも注文の時頭文字を入れたければ、とあるのに申し込んだらしい。そんなこともみんな忘れてしまっていることこそ、実は問題だろう。
月々に色別けしてあり、毎日花と花言葉にあえる。これから十年、と言うと何となくふうっとするものがあって、手触りと重みを楽しんでいたらベランダから声がした。
「何しよると?」
毎日万歩計をつけて歩くことを日課にしているTさんが、運動の途中顔を出した。私は卓上の十年日記を説明する。
「金の使い道がないき、そげなつまらんことばしよると」
と一蹴して、Tさんは帰っていった。
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